「『英語できるでしょ』——その言葉が、なぜ傷つけるのか」言葉の壁の奥にある、言語とアイデンティティの葛藤
- Yasuno Yoshizawa

- May 8
- 7 min read
Updated: May 10

あなたの周りに、海外で育った人や、外国にルーツを持つ人はいますか?
もしいるとしたら、その人の「言葉」について、どんな考えが巡るでしょうか。
「帰国子女だから英語ペラペラでしょ」「外国の方だから日本語、難しいですよね」——そんなふうに、悪気なく声をかけたことが、一度くらいはあるかもしれません。そういう私も、何気なく言ってしまったこと、何度もあります。
でも、そのひと言を受け取った側が、どんな気持ちでいるか、想像したことはありますか?
言葉の壁、という言葉があります。海外生活や異文化環境における困難を語るとき、よく使われる表現です。でも、この「壁」の正体は、多くの人が思っているよりずっと複雑で、そして深いところにあります。
語学力の問題ではない。努力が足りないわけでもない。そして、本人だけが感じている問題でもない。
この記事では、帰国子女と日本在住の外国人、一見すると対照的なふたつの立場の人たちが、実は同じ構造の苦しみを抱えていることをお伝えしたいと思います。そして、その苦しみがなぜ生まれるのか、周囲にいる私たちが何を見落としているのかを、一緒に考えてみませんか。
「英語できるでしょ」という期待の重さ
帰国子女、という言葉には、どこかキラキラしたイメージがあります。英語が堪能で、国際感覚があって、どこでも活躍できる——そんなふうに見られることが多いかもしれません。進学や就職でも「有利」と思われることがあり、羨ましがられることも少なくありません。
でも実際には、海外で過ごした年齢や環境、滞在期間によって、言語の習得度は人それぞれです。現地の学校に通っていたか、日本人コミュニティの中で育ったか。英語を日常的に使っていたか、家では日本語だけだったか。そういった背景が、言語能力に大きく影響します。
それでも、「帰国子女」というラベルは、そのすべてを飛び越えて「英語ができる人」という期待を運んできます。そしてその期待は、学校や試験の場でも、静かに本人にのしかかってきます。
英語の発音を褒められる。通訳を頼まれる。外国人と話す場面で自動的に前に出される。悪意は、どこにもありません。でも、その期待に応えられない自分を、どう説明すればいいのか。「実はそんなに得意じゃなくて」と言おうとしても、「謙遜しなくていいよ」と返ってくる。
言えない。言っても、わかってもらえない。
その沈黙の中に、じわじわと積み重なっていくものがあります。自分の言語能力への不安だけでなく、「自分が何者か」をうまく伝えられないもどかしさ。外から貼られたラベルと、内側にある現実のズレが、アイデンティティの問題として静かに根を張っていくのです。
「日本語お上手ですね」の、その先
日本に住む外国人にとって、日本語は毎日の生活に欠かせないものです。買い物、職場、近所との付き合い——日本語を使わずに過ごせる場面は、思いのほか少ない。
それでも、日本語を話す外国人に対して、周囲の目はしばしばこう語ります。「できなくて当然」と。
例えば、外国人と日本人が並んでいるとき、店員が自然と日本人の方に話しかけていく場面があります。外国人には最初から、言葉が通じないかもしれないという前提が働いているのです。これはアメリカでも、日本でも、わたし自身が何度も目にしてきた光景です。
そして、少し日本語で話せると「日本語お上手ですね」という言葉が返ってくる。悪意のない、むしろ好意的なひと言です。でも、その言葉の裏には「あなたは日本語ができない人」という前提が静かに潜んでいます。
問題は、その後に起きることです。
褒められた安心感もつかの間、会話が少し込み入った話題に移った瞬間、言葉についていけなくなる。笑顔でやり過ごしながら、内側では焦りが広がっていく。「さっきお上手と言ってもらえたのに」という落差が、自信を静かに削っていきます。
期待されなかったことへの安堵と、それでも追いつけない現実との間で、じわじわと積み重なっていくもの。それは帰国子女が感じるものとは、一見まったく逆の体験のように見えます。
でも、本当にそうでしょうか。
見えない決めつけが、人を孤立させる
「英語できるでしょ」「日本語お上手ですね」——これらの言葉に共通しているのは、悪意がないということです。むしろ、好意や関心から生まれることがほとんどです。
だからこそ、傷ついた側は戸惑います。「なぜ自分はこんなに苦しいのか」「傷ついている自分がおかしいのか」と。
心理学では、こうした体験をマイクロアグレッション、そして特にマイクロインバリデーションと呼びます。
マイクロアグレッションとは、特定の属性を持つ人に対して、日常の何気ないやりとりの中で繰り返される、小さな侮辱や否定のことを指します。その中でもマイクロインバリデーションは、相手の体験や感情、アイデンティティを無意識に無効化してしまう言動のことです。大きな差別や偏見とは違い、発言した側に悪意はありません。それどころか、本人は相手を気遣っているつもりであることがほとんどです。
帰国子女への「英語できるでしょ」は、その人が実際に抱えてきた言語の苦労や、中途半端さの葛藤を見えないものにします。日本在住外国人への「日本語お上手ですね」は、その人が日本語話者として対等に存在していることを、無意識に否定します。
どちらも、相手の実際の体験ではなく、外からのラベルに向かって発せられた言葉です。
そして、悪意がないからこそ、当事者は言えません。「実はその言葉が苦しい」と伝えようとすると、「そんなつもりじゃなかったのに」「気にしすぎでしょ」という反応が返ってくることを、経験的に知っているから。
言えない。言っても、わかってもらえない。
この孤立は、一度や二度の体験では生まれません。日常の中で、何度も、何度も繰り返されることで、静かに、でも確実に積み重なっていきます。そしてそれが、「自分の言語は価値がない」「自分のアイデンティティは正しく認識されていない」という感覚へと、じわじわと侵食していくのです。
あなたは、その人の声を聞く前に、答えを見つけていませんか
「帰国子女だから英語ができる。」
「外国人だから日本語は難しいはず。」
その判断は、相手の声を聞く前に、自分の中でもう完成していませんでしたか。
わたし自身も、そうでした。悪意はなかった。むしろ相手のことを考えていたつもりでした。でも振り返ってみると、相手が実際にどう感じているかを聞く前に、自分なりの「答え」を持って接していたことに気づきます。
共感とは、答えを持って近づくことではありません。相手がどんな体験をしてきたか、どんな言葉の中で生きてきたか、その声に耳を傾けることから始まります。「英語できるんでしょ」でも「日本語難しいですよね」でもなく、まず「あなたにとって、言葉はどんな体験でしたか」と聞いてみること。
それだけで、長い間言えなかった言葉が、少しずつほどけていくことがあります。
言語の壁の本当の正体は、語学力の差ではなく、その人の体験をありのまま伝えることができない、と感じさせる閉塞感かもしれません。そしてその壁を低くするのは、語学学習でも翻訳アプリでもなく、相手の声を先入観なしに聞こうとする、その姿勢ではないでしょうか。
ENSO KOGEN Studioでは、帰国後の移行期や、複数の文化の間で感じる揺らぎを、個人セッションを通じて一緒に整理しています。「うまく言葉にできないけれど、なんかしんどい」——そんな段階から、ぜひ話しに来てください。
This article is written in Japanese. If you'd like to discuss these topics in English, feel free to reach out.
参照:
Sue, D. W. (2010). Microaggressions in everyday life: Race, gender, and sexual orientation. John Wiley & Sons.
日本語訳:デラルド・ウィン・スー著、マイクロアグレッション研究会訳『日常生活に埋め込まれたマイクロアグレッション――人種、ジェンダー、性的指向:マイノリティに向けられる無意識の差別』明石書店

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